2026年5月〜2023年5月/ 庭を想う

しとしとと肌寒い雨が降っている。一昨日の夕方、学校帰りの子どもたちと打った杭が雨に濡れている。頭の中、平面図でしかなかった庭のイメージ画が、杭を打つことで立体になり立ち上がってくる瞬間は、ワクワクする。

こんな風に杭を眺めていると、ひたひたと自分の中が満ちていく感覚を見つける。想像の中で杭は樹になり、根を伸ばし土をほぐして、枝を広げ花をつける。居間のガラス戸からその葉や花の重なる様を思い描く時間は楽しい。

私たち夫婦は幼い時に遡っても、庭らしい庭を持ったことがないし、引っ越しばかりして根を張る暮らしと無縁で生きてきた。でも住まう先々で隣家の庭や友人宅の庭先で、植栽と出逢い親しんできて、そのことから遡っていくと、幼いころの暮らしのなかにもやはり植物はずっと居たことに気づき愕然とする。

自分の、ではなかったマンションの共用部分の植物たちが、今は心のあたたかな場所に居てくれることを嬉しく思う。その思い出や新しい出逢いを紡ぐようにして、庭をつくっていくこと。それはこの地に越してきて一番の楽しみなのだと思っている。

そのために移住し、土地を探し、家を作りながらここまでやってきた。わたしは園芸の知識はまるでないし、植物を枯らすことにかけてはちょっとしたものだし、庭仕事もまるでしたことがないのに。なぜ庭を作りたいのか不思議。

目の前に元から生えていた立派な欅の若葉が風に揺れている。この間まで、まわりの樹々が切られたショックからなのか、樹の右側半分はほとんど葉をつけていなかった。病気なのかな?と思ったけれど大丈夫で、少しずつ新しい葉を出してくれ驚いていたのだけれど、もうあっという間に若葉の色も濃くなり堂々としている。

人の体もこんな風に新しく入れ替わっていて、前の自分と思っていたものはもしかしたら、もうすっかりなくなっているのかもしれない。

14時6分 すごい形相で2階から夫が降りてきて、練ってあった漆喰の入ったビニル袋を両手に抱え、呻きながら2階に戻って行く。夫のアトリエになる予定の小さな部屋の一面をさっきまで塗っていたから、仕上がったのだろうな、と思って見に行くと、漆喰がまだらになって下地塗り後のような状態。ええ?と思い夫を見やるとひと言、『ぜんぶ剥がした』。

え?

この壁の前に小さめの箇所を三面仕上げて、コツを掴んだと嬉しそうにしていた夫だったけれど、さっきは集中力が続かないとぼやいていた。私が来て横で生あくびを繰り返していたせいなのかもしれない。笑 前半はかなり綺麗に塗れていたのに、どうしてなのか、下地の塗料も剥がれてコテにくっついてきてしまう箇所がある。そこが上手く塗れないために修正をかけていると、綺麗に塗り終わったはずの箇所にまで影響が出て面がガタガタとしてくる。

剥がした後に塗り直して果たして・・・と書いたところでブログの文章は終わっていた。今は2026年の5月で、この頃の記憶はまるで残っていない。文章を読み返して、そうだったけ?くらいのものだが、夫は何もかも鮮明に記憶していることだろう。今は涼しい顔で二階の仕事部屋で仕事をしているのだから、壁は無事出来上がったということなのだ。

家が出来上がって3年経ったし、前述のように庭を作りたくて移住してきた私たちであることは事実なのだが、相変わらず私が庭仕事をすることはない。夫は朝が得意で、とにかく早い。早くから起きて台所や家の中を片付け洗濯物をしてからさっさと庭仕事をしに外へ出る。セルフビルド期間中から今まで、家事育児の分担と各々の仕事は、常に緩やかに変化を続けてやってきた。子供が乳児からはいはいし歩き出し幼児になり小学生になり成長していくのと同じように、親の私たちが作り出す家族の形、夫婦それぞれができることは、パッキリと分かれているのではなくてずっとグラデーションの中をモヤモヤと漂いながら、いつの間にかすっかり別の場所に出ていく。これが正しい、という正解なんてどこにもなくて、強いて言えば常に変わり続けているのが正解なのだと思う。私は夫が庭仕事をしている様を眺めているのが好きだ。人間離れした脅威の実行力を見ると、これがこの人の天才なのだと思い知らされる。腰やお尻の骨が砕けそうになりながら、一晩で石を積み植木を囲う造形を生み出していた。したい人が、したいことのできる世界は最高だと思う。

でもこの間、自分で選んで山芍薬となんとか百合(何度確認しても名前を忘れてしまう)を植えてそれはすごい楽しかった。今度はその横に、去年お祭りで買ったフウセンカズラとヒマワリの種を、今年は植えたいと思っている。

kaori

kaori

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です